gary1212のブログ : マレーシア、イポーでの生活。

滞在期間がマレーシア以外の時も 含んでいます。

マレーシア-イポー長期滞在生活での日常での出来事を書いてます。

ブログの目的は、もっぱら自分自身用の日記です。

不特定多数の方に情報を早く正確に伝達したい というつもりでは全く書いていません。

このためローカルの友人からもらった情報で、それが不確実な情報でも 私が関心を持ったものは 書いています。

繰り返しますが 読者のみなさんへの確実/正確/迅速な情報提供をしたい と思って書いているのではありません。

それじゃ困る と思う方は どうぞ 読まないでください。

よしなに。

マラッカ歴史ロマン人物1 ハントア ( 伝説の武人 )



「Hang Tuah」Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Hang_Tuah?wprov=sfti1


ハントア はマレーシアの伝説の武人だ。


KLにもその名前の駅があるし、宮本武蔵を日本人なら誰でも知っているように マレーシア人なら誰でもハントアを知っている。




15世紀、マラッカ王国にてスルタンに仕え、シラット という武術の達人だ。


そして スルタンへの忠義の人だ。






こんな記事を読んだ。



Hang Tuah is Chinese? Hang on a second…

http://www.freemalaysiatoday.com/category/opinion/2017/05/22/hang-tuah-is-chinese-hang-on-a-second/



そもそも ハントアは実在の人物なのか、という議論もあるのだが、架空の人物じゃ 面白くないのだ。話が進まなくなってしまう。


実在の人物だった ということで 彼は 一体どこから来たのか、という謎解きの方が 歴史ロマンがある。



記事は まずは ハントア華人説を紹介したうえで、次にそれに対する反論を加えている。


だからタイトルも Hang on a second (ちょっと待ってよ) なのだ。






ハントア華人説を見ていこう。



ハントアの物語に出てくる5人のハンの本当の名前は次のとおりだ。


It was revealed that Hang Tuah’s real name was Hang Too Ah, Hang Jebat was Hang Jee Fatt, Hang Lekir was Hang Lee Ker and Hang Lekiu was Hang Lee Kiew.




そして Hang という名前自体なのだが 現代のマレーシアにおいては マレー系の名前としては あまり 見かけない名前なのだ。


名前(家族名/苗字) と言うものは、先祖代々の歴史を引き継ぐという性格があるのだが、 Hang という名前の家系は 現在のマレー系の名前の中では特殊だという。


つまり 昔々 においても Hang は特殊な名前だったのだ。



じゃあ、Tuah の方はどうなんだ と言う疑問が出る。


この点、ハントア は 現在 Hang Tuah とスペルされるが、本来は Hang Too Ah だった と判明しているのだ。


Too Ah の 音声上の響き を マレー語 で馴染み深い単語(発音) である Tuah にて代用し、それが 現在の Hang Tuah という名前に繋がっている と言う研究結果から、ハントア の出自は Hang To Ah をベースに解明することができるはずだ、というのだ。


飛躍しすぎじゃないの と思うかもしれないが、そういう見解があるということで、マレーシアにおいても学問の自由は保障されるのだ。






Too Ah とか、Han/Hang とか の音声上の響きは 中国語のものであり、ムラユ言語のものじゃない とこの見解は考える。


つまり、このHang という名前を手掛かりとして ハントア は中国からやってきた華人ではないのか、という説なのだ。




そうか、この説を推し進めると こういうことになるんじゃないか、 と私も考えてみた。


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(1)「ハントアは シラットの達人 」 = 「ハントアは中国武術の達人」


つまり


(2) 「シラット 」= 「 少林拳 」


(3) Hang の5人の仲間は 少林拳の選手達で 密命を帯びて明國からマラッカに派遣されたスルタンボディガードだった。


(4) スルタンへの忠義も ボディーガードとしての責務の一環だった。


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以上が 松本清張モードに入ってしまった私の推測なのだが、ハントア華人説に関して ここまで 鋭く 踏み込んだことは 記事には 一切 書いてなかった。



逆に 記事は Hang on a second ... (ちょっと待ってよ) と 上記の「ハントア華人説」の主張根拠に批判を加えているのだった。


どんな批判なのか、というと それをこのブログに書くのは割愛する。


なぜ 割愛するのか、というと、 読者自身で記事を読んでいただけば批判の内容は分かるし、夢がなくなってしまうからだ。


歴史ロマンは 夢があるほうが楽しい。








記事は ハンリポ のことにも触れている。


ハントア も ハンリポ も 同じハン という点から 何らかのつながりがある というハントア華人説での観点だ。



Hang Li Po というスペルが用いられているが、漢字は 漢麗寶 で 現代中国語での発音は、ハンリポ or ハンリバオ or ハンゥリバオ or ワンゥリバオ とされる。




マラッカ王国のスルタンに 嫁いだ Hang Lim Poh という明國の公主のことなのだ。


公主とは 天子の娘、皇女のこと。つまり 中国明王朝の皇帝の娘が マラッカのスルタンに嫁いだのだ。



この公主は鄭和の指揮する大船団でマラッカにやってきた ということを何かの本か資料で読んだ記憶がある。


( どの本/資料 に書いてあったか と探してみたが 見当たらない、 web検索もしてみたが 見つからない。 記憶違いだったかなぁ〜。)




明王朝の鄭和と言えば 南海への7度の大航海で有名な大将軍だ。


永楽帝の治世下、鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した という話は有名だ。


コロンブスのアメリカ発見よりも100年も前のことだ。



鄭和が 明國 皇女の 漢麗寶 を帆船でマラッカまで護衛してくる 、 お付きの宮廷女官達は500人、 あー なんていう 歴史ロマンだ。



と、ここまでで終わることができたなら 良かったんだが、漢麗寶 の事を調べていたら、こんなことが書いてあるのだ。


「 明國側の記録には 皇女 漢麗寶 のことは何も記されていない」





うーむ、 もうちょっと ハンリポ のことを調べてみるかなぁ〜〜。







以上