gary1212のブログ : マレーシア、イポーからの異文化体験のお便り日記 を更新中。 日記なので毎日書くように努力してます。

マレーシア-イポー長期滞在生活での日常での出来事を書いてます。
マレーシアと日本の文化の違い発見、地方への旅行で見つけた発見、などなど。
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マラッカ歴史ロマン人物3 ハン リ ポー ( 果たして 明國の皇女だったのか )

Hang Li Po : Chinese princess


Hang Li Po (Chinese: 漢麗寶; pinyin: Hàn Lìbǎo) was the fifth wife of Malaccan Sultan Mansur Shah (reigned 1456-1477). She was supposedly given by Ming China, but it is disputed whether Hang Li Po ever existed since she was never recorded in Ming Dynasty records. However, there are records of visits of Malacca rulers to China.


Her vast entourage was recorded to be 500 followers and Sultan Mansur Shah provide a whole hill as their settlement, now known as Bukit Cina, as a gift to his new Chinese bride, Princess Hang Li Po, in the mid-15th century. Now, there are more than 12,000 graves in the cemetery and the oldest dates back to 1622.



以上は ハンリポ に関する要約情報だ。



この要約情報にあるとおり ハンリポについては謎が多い。




明國からマラッカ王国に嫁いだ公主 ハンリポ は 果たして実在の人物だったのか。実在したとしても どこの誰だったのか という謎だ。




マラッカには 観光名所のひとつとして ハンリポの井戸 があるし、シナの丘 と呼ばれる場所もあるので 実際に 中国からやって来た実在の人物だったのだろう。 ( ハンリポの井戸の話は その後 毒薬投入でポルトガル兵が死んだなどの後日談が続き オランダにより井戸の周りを塀で囲った形で現在まで保存されている。私も前回のマラッカ訪問時に シナの丘と この井戸を見学して来た。)


問題は、それが皇女(公主)であったのか、という点だ。



皇帝の娘が 他国に嫁いだ というなら 明國側の記録に残っているはずなのだが、何も関連する記載がないのだ。





次の記事には、こんなことが書いてある。



The search for Hang Li Po | New Straits Times | Malaysia General Business Sports and Lifestyle News


https://www.nst.com.my/news/2017/04/228020/search-hang-li-po




以下に 核心部分をピックアップしてみた。



Although Sejarah Melayu is central to any understanding of Malaccan history, Tomé Pires’s Suma Oriental is no less significant. Unlike Sejarah Melayu, which was produced in Johor around 1612, the Suma was written in Malacca itself between 1512 and 1515 (that is, shortly after the Portuguese conquest).


Intended as an official report for the Portuguese king, it was (primarily) constructed using a Javanese chronicle; because the Javanese constituted a majority in pre-Portuguese Malacca, Pires considered this text to be the most reliable at his disposal.



明國側の記録には何も書かれていないとしても ポルトガルの記録の記録も検討する必要があるのだ。


それは ポルトガル国王への報告用に作成された記録で Suma Oriental という名前の資料だ。


ポルトガルがマラッカを占領した直後の 1512年から1515年にかけて マラッカで書かれた資料だ。


マレー歴史の種本である Sejarah Melayu は マラッカ王国が滅亡した後、ジョホールにて書かれたのだが それは1612年のことなので、ハンリポの事についても そのようなマレー側での記述よりも 1512年から1515年にかけて書かれたポルトガル資料の方が正解な可能性がある。



マラッカをポルトガルが占領する前の内容については、ジャワの年代記をベースにして記録した としており、だから ポルトガル占領以前の記載内容についても信頼できる内容を書いている と この記録の作成者( Tomé Pires)は考えているのだ。




Significantly, therefore, although it did not mention a Chinese princess wedded to Sultan Mansur Shah, it did refer to an unnamed Chinese girl who married Malacca’s second ruler, Sultan Megat Iskandar Shah (r.1414-1424). When examined carefully, this girl, who was unmentioned in Sejarah Melayu, emerged as the probable origin of the Hang Li Po legend.



確かに このポルトガル側の資料にも 中国の皇女がスルタンに嫁いだという事は書かれていないのだが、名前不詳の女性がマラッカのスルタンに嫁いだ という記録は残っているのだ。


このポルトガルの記述は マレー側の記述にある皇女ハンリポ の話と符合する。


According to the Suma, at the beginning of his reign, Sultan Megat Iskandar Shah decided to visit China to pay allegiance to the emperor.

After he had been received with great honour, and when the time came for him to return home, the sultan was entrusted to the care of a “Great Captain”, with whom he travelled back to Malacca and: “The captain brought with him a beautiful Chinese daughter, and when the said Xaquem Darxa (Iskandar Shah) reached Malacca, in order to do honour to the said captain, he married her although she was not a woman of rank.”


ポルトガル側の資料である Suma Oriental によると こんな内容が記述されている。


マラッカ王国のスルタンは明國を訪問して 属国としての敬意を払ったが、マラッカに帰る時に 明國の Great Captain に護衛されて帰ることになった。


その時、Great Captain には美しい娘が同行し、スルタンはマラッカに到着すると その娘と結婚した。


なお その娘は高貴の出身ではなかったが、スルタンとしては Great Captainへの感謝の印として その娘と結婚をした。





Later, this girl bore Sultan Megat Iskandar Shah a son with the title Paduka Raja.


Although this account differs in certain respects from Sejarah Melayu (it refers to a regular Muslim girl, not a non-Muslim princess; involves Sultan Megat Iskandar Shah, not Mansur Shah; and speaks of a Malaccan ruler’s visit to China, something unmentioned in Sejarah Melayu), the two undoubtedly shared a common core — a Chinese girl is escorted to Malacca by a Chinese official before marrying a Malaccan ruler, with whom she had a son with the title Paduka.



その娘は 普通のムスリムであり 非ムスリムの皇女であったとは書かれていない などの不整合部分はあるものの このポルトガル側の資料の記録と マレー側のハンリポに関する記述は 共通の核心部分を有していると見るのが自然だ。




Ultimately, however, that the two accounts were indeed linked was demonstrated by the Chinese official: in each case, this official appeared to be the famous Zheng He (1371-1433/5).


そして Great Captain とは 鄭和のことだと推定されるのだ。










興味深いのは、次の箇所だ。


Significantly, therefore, the name of Sejarah Melayu’s Chinese official, “Ling Ho”, is an obvious corruption of “Zheng He”. But, if both officials are, therefore, representations of Zheng He, the probability arises that Pires’s unnamed Chinese Muslim girl is an earlier version of Hang Li Po, whom the author of Sejarah Melayu (which was written nearly two centuries after the events in question) must have mistakenly associated with Sultan Mansur Shah.



鄭和は Zheng He (ズンホー) なのだが、これが 訛って Ling Ho としてマレー側の歴史書では書かれている可能性が高い。


そして このLing Ho がやがて Li Po に変形し、 鄭和提督が連れて来た娘 という事で ハンリポ の リポの部分の語源になった ということじゃないだろうか。


とにかく マレー側の歴史書 Sejarah Melayu はマラッカ王国滅亡後100年も経ってから書かれた資料なので、さらに滅亡前を100年遡るハンリポの時代のことは Sejarah Melayu執筆時の2世紀近く前の事になる。


だから Sejarah Melayu の記述内容には 不正確な部分が含まれている (関係するスルタン名の混同を含む) という見方をしておくべきだ。




以上が マレー歴史ロマンで 登場する代表的人物の一人 ハンリポ の話なのだが、それなら なぜ 鄭和の大航海時の記録を検証しないのか、と言う疑問が湧くかと思う。


当然の疑問だ、 鄭和提督の航海記を検証すれば ハッキリ するはずだから。



でも その肝心の航海記は 破壊されてしまって 残っていないのだ。





誰が どんな理由で そんな大事な記録を破壊してしまったのか、 は 自分で調べてくださいね。( 鄭和で検索すれば わかると思いますので お手間でしょうが よろしくね。)



終わり。



(参考情報)



http://www.freemalaysiatoday.com/category/nation/2012/01/16/hang-li-po-hang-tuah-did-not-exist/


https://m.malaysiakini.com/news/361658



https://www.nst.com.my/news/2017/04/228020/search-hang-li-po




以上 (10/11記)