gary1212のブログ : マレーシア、イポーからの異文化体験のお便り日記 を更新中。 日記なので毎日書くように努力してます。

マレーシア-イポー長期滞在生活での日常での出来事を書いてます。
マレーシアと日本の文化の違い発見、地方への旅行で見つけた発見、などなど。
ブログの目的は、自分自身用の日記ですが、公開日記にすることで 情報を調べたり、確認する必要があるので、脳機能の活性化になっています。

( イポー物語 5 ) ジェームズ バーチ、 パンコール条約




< ジェームズバーチ >



イポー駅の近くにある時計台に バーチの名前がついている。


バーチは、英国初代駐在官(行政官or理事官) で、1875年11月2日に現地人(スルタン側近)によって暗殺された。



この時計台にある界隈は 英国統治時代の雰囲気が漂う建物が多い。





< パンコール条約 >



イポーから車で数時間でパンコール島へのフェリー乗り場に到着する。


これまで3度 行ったが、パンコール島は小さな島だ。海岸よりの道路を車(島内タクシー)で一周すると1時間もかからないくらいだ。




1874年、ここで 英国とペラのスルタンが条約を結んだ。


なぜ 条約が必要になったのか、ということの背景だが、ペラでも 他の王国と同じく、王家の跡継ぎ問題が後を絶たず、さらにスズの利権を巡って中国人らも巻き込んでペラ全土で内戦に発展したのが 同条約の締結の きっかけだ。


きっかけ というのが適切な言い方でないとしたら、英国が 目をつけた、英国に付け入る口実を与えた という言い方になるかもしれないが。



条約の内容だが、英国人の行政官が王(スルタン)のもとに駐在し、「助 言」を与えることなどが定められた。


ただし、助言という名前のもと、実 質的には拒否できない命令で、これにより英国は 行政権を掌握することになった。




シンガポールもペナンも島であり、パンコールも島だ。


他方、マラッカは島ではない。


英国は マレー半島の有力な王国として古くから栄え、その後 ポルトガル、オランダ が支配したマラッカを引き継いだという経緯がある。


マラッカはすでに出来上がっていたものを引き継いだ (注) ということになるが、英国の基本戦略は 辺鄙な島をまずは 抑え、そこに 海峡都市を建設して 海上交易の中心 とするというものであった。


(注) 1824年の英蘭協約で、スマトラ島の英国植民地アチェ王国とオランダ領マラッカが交換された。その際、マラッカ海峡より西側はオランダ領、東側は英国領と定められた。


こういう観点から 英国はパンコール島も直接統治の植民地として 当初は狙っていたんじゃないのかなぁ と、 素人考えながら 、私は思うのだ。





それが 英国は方針を変えた、欲が出たんだろう。 強欲が。



海峡都市だけじゃ つまらない、マレー半島全部を欲しい って。



英国はパンコール条約と同様の条約を他のマレー王権と結ぶこ とでマレー半島の植民地化を進めたのだ。




以上を要約すると こういうことになる。


:


英国はマラッカ、シンガポール、ペナン を海峡植民地として 直接統治すべく 抑えていたが、パンコール条約以後、マレー半島の各王国を間接統治するようになり、やがてマレー半島全体が英国の植民地になった。






< 再び ジェームズバーチ >


バーチの暗殺の背景をもう少し詳しく書くと次のとおりだ。




パンコール条約後にマレー半島で初めて行政官(理事官)が置かれた。


着任した行政官ジェームズ・バーチは、強引に徴税を開始するなどした。


このため、スルタンをはじめとしたペラ側からの反発を招いた。


スルタンは側近らと結託してバーチを殺害して英国を追放することを決断した。


1875年11月にスルタン側近のダトー・マハラジャレラがバーチとその通訳を暗殺した。


そこで英国軍が派遣され、スルタンらを討伐しようとしたが猛反撃に遭った。


しかし、その後関係者らは捕まり、スルタンはセイシェル島に流刑されたほか、死刑になる者もいた。





以上