イランとイラク (3) ( ササン朝、ペルシャ世界/文化の栄光 )
アレキサンダー大王が急死した後、その領土は部下の将軍によって争われ、やがて諸国に分裂した。
諸国とは アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプト などであるが、アジアの領土はセレウコス朝が引き継いだ。
その後、セレウコス朝の領土では、ギリシャ人が独立してバクトリアをたて、また遊牧系イラン人のアルケサスがパルティアを建国した。
このパルティアを倒して建国したのが ササン朝だ。
アルダシール1世が建国の祖で、ゾロアスター教を国教に定めて国の統一を図った。
第2代皇帝のシャープール1世はローマ軍を破りローマ皇帝バレリアヌスを捕虜にしたり、インド方面を攻めたりして 広大な地域を統合して中央集権体制を確立した。
更に後には ホスロー1世が トルコ系遊牧民の突厥と組んでエフタルを滅ぼしたりビザンチン帝国を攻撃し、優勢のもと 有利な和平を結んだ。
しかしホスロー一世の没後 次第に衰え やがて新興のイスラム勢力であるアラブ人により征服されて滅んだ。
新興のイスラム 勢力とは預言者マホメットが死んだあとその信仰集団を引き継いだ正統カリフ時代のアラブ勢力である。
預言者マホメットのあとを マホメット後妻の父のアブバクルが引継ぎ初代カリフとなった。
そして、二代カリフのオマル(ウマル) は軍事的統率に優れており ネハーバンドの戦いで ササン朝を滅ぼした。
イラン人から見れば アラブ勢力というのは 文明/文化など何もない砂漠から出てきた野蛮な宗教軍団、という感じなのだろう。
我々日本人からは イラン人もイラク人も同じような容貌に見えるし、文字もなんだか似たようなアラビア文字を使っているので 親戚関係にある国どうしなのかな と思ってしまう。
ところが 両国は仲が悪い。 イラクはスンニ派が多数であるのに対し イランはシーア派だ。
そもそも人種系列が違う。
イラン人は アーリア系だ。
他方 アラブ系に属するイラク人は セム語系。
誇り高きイラン人にとってペルシャ文化の栄華は脳みそにしっかりと刻み込まれている。
アケメネス朝以来 イランは豊かな芸術を育み 中国の唐と同時代であったササン朝の時には 西域の文物はイランからシルクロード を通って長安に入ってきた。
文化の高さを誇ったイラン人が これまで文化の面で見下ろしていたアラビア人の支配を受けるのだから 激しい屈辱感があったはずだ。
以上までがイスラム化するまでのイランだ。
ではイラクやサウジアラビアのイスラム教世界はどのように形成されたのか。
その過程でどうしてスンニ派とシーア派という二派に分裂してしまったのか。
( 「イランとイラク (4) 」に続く。)
以上 (1/7 記)