gary1212のブログ : マレーシア、イポーでの生活。

滞在期間がマレーシア以外の時も 含んでいます。

マレーシア-イポー長期滞在生活での日常での出来事を書いてます。

ブログの目的は、もっぱら自分自身用の日記です。

不特定多数の方に情報を早く正確に伝達したい というつもりでは全く書いていません。

このためローカルの友人からもらった情報で、それが不確実な情報でも 私が関心を持ったものは 書いています。

繰り返しますが 読者のみなさんへの確実/正確/迅速な情報提供をしたい と思って書いているのではありません。

それじゃ困る と思う方は どうぞ 読まないでください。

よしなに。

イランとイラク (2) ( アケメネス朝 )


中東史専門の歴史学者とかイスラム文化専門家などが書いた本なら専門過ぎ、かつ枝葉末節までこだわりすぎで もし私が読んでも余計に混乱するばかりだったろう。


その点この陳舜臣が書いた「うるわしの国イラン」(コーランの世界: 第1章 )は僅か33ページなので イランのことが 素人向けに凝縮して描いてあり読みやすい。


マルコポーロが護衛隊の一員として福建からイル汗国まで随行したコカチン姫のことも書いてある。


外来統治者のモンゴル人が支配する国なのにイスラム教を国教としてしまったイル汗国も場所はイランだ。



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イランはメディア王国の支配下にあった。


アケメネス朝キュロス王がメディアを滅ぼす。ついでにリディアとバビロンも滅ぼす。


すなわち アーリア系イラン族によるイラン政権の誕生 = 古代ペルシャ帝国の誕生 だ。


アケメネス王朝が支配した中心地域は パールサ と呼ばれてきたが ギリシャ人が ペルシャ と呼んだことから アケメネス朝はギリシャ史家から ペルシャ帝国と称せられた。


つまりペルシャはイランの中の一州だった。


キュロスの死後 息子のカムピュセスはエジプトとエチオピアに遠征し 途中で死んだ。


各地に内乱が勃発し帝国の秩序は乱れた。


一時 ゾロアスター教の僧がアケメネス朝を簒奪した。


エジプト遠征から帰った王族のダリウスが政権を奪回した。


ダリウスはアケメネス朝を蘇生させ 巨大な帝国を築き ダリウス一世となり ペルセポリスを築き国都とした。


ダリウス一世はマラトンの戦いでアテネに負けた。


息子のクセルクセス一世もサラミスの海戦でアテネに負けた。


だが これらの対ギリシャ(アテネ)戦争の敗北はアケメネス朝にそれほど致命的な打撃を与えていない。


なぜなら その後もペルセポリスの国都造営は続き、依然隆盛を誇り、アケメネス朝が滅亡したのはサラミスの海戦から150年後だったからだ。


高校の教科書レベルでは アレキサンダー大王がアケメネス朝を滅ぼした と教えているが、アレキサンダーの武力というより 王朝末期の権力闘争による自己分裂の結果という要因が強い。


王位継承を巡っての陰謀、宦官による王の殺害 などで王族はほとんど殺されてしまった。


最後の王 ダリウス3世は アルメニアの知事をしていた遠縁の王族に過ぎない。


アレクサンダー大王に攻め込まれてペルセポリス陥落後、ダリウス3世は逃亡したが 部下に殺された。



アレキサンダーはペルセポリスを焼き払った。



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この後 ササン朝ペルシャ を経て いよいよイランは イスラムの世界に取り込まれる。



新興のアラビア軍が攻めきたのだ。


砂漠に芽生えた厳しい戒律を持つイスラム教が 勢力範囲の拡大を目指した。


イスラム教 イコール アラビア軍 という構図だ。


イスラム教の布教活動は 「戦闘征服行為である」ところに特徴がある と思う。


この点が 他の宗教と根本的に異なる と思ってしまう。


もちろん 仏教でも 比叡山には僧兵がいたし キリスト教にも十字軍やマルタ騎士団があった。


それらと どう違うんだ と反論されても 私には よくわからないが、感覚的に とにかく違っている という気がしてならない。







二代カリフ オマル(ウマル) がネハーバンドの戦いで ササン朝を滅ぼした。




アケメネス朝以来 イランは豊かな芸術を育み 中国の唐と同時代であったササン朝の時には 西域の文物はイランからシルクロード を通って長安に入ってきた。



文化の高さを誇ったイラン人が これまで文化の面で見下ろしていたアラビア人の支配を受けるのだから 激しい屈辱感があったはずだ。


だから イランが イスラム教を取り入れる際に できるだけ自分たちの精神の寸法に合わせて採用しようと思った。


このことが 多数派であるスンニ派ではなく 少数派であるシーア派をイランが採用した根源だ という説だ。


つまり 古代文明国としての誇りが そうさせたという説が有力なのだ。



なお、シーア派には ササン朝最後の皇帝の娘が三代イマームの妻になったということでシーア派のイマームにはイラン王族の血が混ざっているとイランの人は信じ込んでおり このことが イランをシーア派の国にしているという説もある。



さて そもそも シーア派と スンニ派 は どこの時点で分岐したのか、違いはなにか。


「イランとイラク (3) 」に続く。





以上 (1/7 記)