イランとイラク (4) ( マホメット、カリフvsイマーム、 スンニ派vsシーア派 )
マホメットが632年に死んだあと 信仰集団はアブバクルが指導することになった。
初代カリフである。
マホメットはあくまで預言者であって別格の存在なのであり 初代カリフではない。
アブバクルはマホメットの後妻アーエシャの父にあたるが2年後に死んだ。
これを軍事的統率力に優れていたオマル(ウマル)が引き継ぎ2代カリフになった。
オマルはその在位10年間に軍事力を使ってイスラム圏を大いに広げた。
ササン朝もネハーバンドの戦いで滅ぼした。
しかしオマルは暗殺されてしまい、オスマーン(ウスマーン)が第3代カリフとして引き継いだが教団内での派閥抗争が激しくなりオスマーンも殺されてしまう。
これを継いだ4代カリフがアリーだ。
このアリーの血統がその後のスンニ派とシーア派の分裂にあたっての重要な要因になる。
アリーはマホメットの先妻の娘ファティーマの夫である。そしてマホメットの従弟でもある。
つまり預言者とは極めて近い血縁関係にあったということである。
アリーは4代カリフに選ばれたが マホメットの後妻のアーエシャやオスマーンの属していたウマイヤ家などはアリーの第4代カリフ就任に反対し、反抗的な態度をとった。
アーエシャの反乱は平定されたが ウマイヤ家のモアウーイヤとの戦いは苦しいものとなった。
教団内の派閥抗争に対してハーリジという理想主義者が対立者をともに殺すという手段でことを解決しようとした。
こうしてアリーは暗殺されたが モアウーイアは負傷したものの命はとりとめた。
生き残ったモアウーイアは第5代カリフになり、その後世襲された。これがウマイア朝であり、この系統を正統と認めるのが スンニ派だ。
これに対して 殺されたアリーを崇拝する人たちは アリー以前のカリフを認めず これを簒奪者と決めつける。
アリーだけがマホメットの後継者として正統であり、だからアリーの子のハサンとフサインはアリーの後継者となる。彼らはマホメットの孫になるからだ。
この系統を正統とみなすのがシーア派である。
シーア派は カリフという称号を用いずイマームと称した。
アリーが初代イマームで ハサン、フサインの兄弟がそれぞれ2代 と3代のイマームとなる。
フサインは壮烈な殉教を遂げ、その子のアリーが第4代になった。
12代イマームになって 死んだのではなく姿を隠した、つまり時間を超越した存在になり最後の審判まで姿を見せない という解釈になり したがってシーア派のイマームは12代で終わる。
神隠れ という複雑性は高野山の弘法大師の即身成仏を思わせる。
その後信仰指導者はイマームの代理人とみなされる。
ホメイニもイマームと呼ばれることはあるが正確にはイマームの代行者だ。
なお シーア派の中にもいくつかの宗派がある。
仏教のように教義の解釈から出てくる宗派の分派ではなくイスラム教ではイマームやカリフの継承の正統性についての意見の相違が宗派の分裂をもたらす。
12イマーム派がシーア派でば多数派だが 7イマーム派という宗派もある。
シーア派は誇り高きイラン人のアラブに対する反抗の現れだという見解のあることは既述したが、シーア派のなかでも7イマーム派は特にその傾向が強い。
マルコポーロの東方見聞録に出てくる暗殺集団「山の長老」は 7イマーム派(イスマイル派)のなかでも特に過激な一派だ。
以上 (1/7 記)