マレーシア近代史 2 ( マラヤ危機での強制移住作戦、 パハンの反乱 )
マレー危機 の状況を 文献などで もうちょっと 追加で 調べてみた。
だけど マレー危機を調べると言っても、素人の私には そんな事を専門的に調べる能力など 全くないので、範囲を極力限定して ほんのさわり部分のみだけどね。
具体的には、私に 馴染みの深い 地域として 現在居住中のペラ州 や 以前住んでいたキャメロンハイランドがあるパハン州 に関連する範囲内限定 での事柄だ。
それでも 脳みその活性化には役立ったのだ、私の脳みそのことだけどね。
(読む人にとっては このブログ記事 全然 面白くない だろうなぁ、すいませんねぇ〜。)
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( ペラ州の とある町での状況 )
プシン(布先)はマレーシア ペラ州にある小さな町で、バトゥ・ガジャ Batu Gajah から約5km、イポーIpoh から約14キロ、パパン Papan、シプテ Siputeh、ラハッ Lahat の近くにある。
住民の多くは客家人 Chinese Hakka である。
マレー危機の期間は、このエリアは共産主義テロ活動の温床であった。
Pusing警察署への連続攻撃と12件の殺人事件が発生した。
このため 高等弁務官 Gerald Templer は、町に$40,000の集団罰金を課し、夜間外出禁止令を施行し、共産主義者をサポートしている罰として、44日間(中国人にとって不吉な数)全てのショップを閉めさせた。
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(ジャングル : 共産ゲリラへの作戦)
共産ゲリラへの対策の一つとして 強制移住作戦が取られた。
この作戦は 英軍が共産主義勢力圏に入ると、 村々を焼き払い 全住民を強制移住させるというものだ。
これは その後 アメリカのベトナム戦争でも採用されたとおりだ。
焼き払い と 強制移住 のセット作戦で 村民とゲリラを分断し、やがて ゲリラをジャングル内に孤立させる というものだが、これは マレー危機の際に 研究開発された特殊作戦というわけではない。
もっと以前に この作戦は 英軍により実行されたという歴史があるのだ。
それは、1890年代に起こったパハン戦争で、英国軍が とった作戦だ。
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(パハン戦争)
パハンの反乱と呼ばれる この内乱は、当時パハン州地区を統治していたスルタン(アマード)の側近バーマンが脱藩したことから始まっている。
1880年代には セランゴール、ペラ、ヌグリスンビラン の各王国が英国の保護領になり、各スルタンと重臣たちは英国から年俸をもらって暮らすようになっていたのだが、マレー半島で最大の面積を有するパハン王国も その波に勝てず、パハン王国スルタンのアマードも渋々 英国との協定に同意した。
しかし 側近中の実力派であったバーマンが 英国がとった彼の領地への措置が不満だとして 英国に大幅な年俸アップを要求したのだ。
英国が その要求を飲まない限りは、自分も領民も 英国の法律には従わない とバーマンは宣言したのだが、スルタン アマードは これに対して バーマンを解任、追放した ところから パハンの反乱は始まった。要するに 王様が自分の部下の有力代官を切り捨てたのだ。
実は 裏では 英国のやり方に不満なパハン王国スルタンの アマード としては 自分は王としての立場もあるので 身勝手なことはできないが、バーマンなら自分に代わって英国への恨みを晴らしてくれるかもしれない と期待して、そのようにバーマンを仕掛けたんじゃないかい という説もあるのだ。
という事情もあるので、スルタンのアマードは バーマン討伐に積極的でない、このため英軍がパパン王国スルタンの手勢を頼りにせずに 独自に兵員を整え、反乱者バーマンの討伐に向かった段階で、内乱はもはやパパン内部の抗争というものではなく、反植民地闘争の性格をはっきりとさせた と言われている。
そして この英軍によるバーマン討伐作戦で バーマン勢力範囲区域に入った英国が採用したのが 「村々の焼き払いと強制移住」 という作戦だったのだ。
その後 この作戦は マレー危機でも採用され、フィリピンでも1950年代にフクバラハップゲリラ討伐でも採用され、そして ベトナム戦争でも採用されたのだった。
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写真はプシン の街並み。
以上 (10/14 記)