gary1212のブログ : マレーシア、イポーでの生活。

滞在期間がマレーシア以外の時も 含んでいます。

マレーシア-イポー長期滞在生活での日常での出来事を書いてます。

ブログの目的は、もっぱら自分自身用の日記です。

不特定多数の方に情報を早く正確に伝達したい というつもりでは全く書いていません。

このためローカルの友人からもらった情報で、それが不確実な情報でも 私が関心を持ったものは 書いています。

繰り返しますが 読者のみなさんへの確実/正確/迅速な情報提供をしたい と思って書いているのではありません。

それじゃ困る と思う方は どうぞ 読まないでください。

よしなに。

インタンまでお悔やみに : (1)テロック インタン斜塔の話、(2)とても 辛い話、(3) 中国との関係強化の話



テロックインタンまで お悔やみに出かけた。


UTCビルディングの二階にある花屋で お悔やみの花束を買ったのだが、花屋の婆さん 萎れそうな花を多くしようとするので 「ダメよー! そう言う強欲な花売りは! こちらの新鮮な花に変えてちょんまげ‼︎ なのよ。」と交渉して 数日は持ちそうな花束にしてもらった。


でも流石 強欲婆さんだ、「そっちの花に変えろというなら 10リンギ追加よ 。」 と切り返してきた。まぁ 10リンギの追加なら と応諾した。


テロックインタンは 斜塔で有名だ。


世界の三大斜塔は、(1)ピサの斜塔、(2)西安の大雁塔、(3)テロックインタンの時計塔 と言われる くらいに有名だ。



テロックインタンまで 結構 時間がかかった。 片道2時間半くらいもかかってしまった。



何故 この塔が傾いてしまったのか、一番上の水のタンクが重すぎて傾いた という説が一般的だが、そうではない という説もある。


テロックインタンで生まれて育ち 今もそこで暮らしている知り合いの華人が言うには、日本軍が原因だ というのだ。



戦時中、空爆だったのか、砲撃だったのか、日本軍にょる爆弾がインタン塔の近くで炸裂し、その時に地面が揺れて 塔が傾いた というのだ。



もちろん その華人が目撃したわけではない。彼は今 55歳前後だから 日本軍のマレー進行を目撃していない。

でも 彼は言うのだ、 「本当なんだよ。」 って。



当時のことを目撃した親から聞いたのだろうか。





お悔やみの話だが、亡くなった人は まだ47歳だった。




華人なので仏教徒だ。でも日本と異なり 上座部仏教なので、御仏前でのお祈りを どのようにすればいいのか良くわからない。



そしたら 「日本式の合掌で良いです」 と言われて、ご自宅で故人の遺影が飾ってある仏壇(祭壇)に献花して、線香を立て、おりん を鳴らして 合掌した。




日本の仏教の事さへも私はよく知らないので、日本とどの程度違っているのかわからないが、ここでは 故人の霊は 家の中に入れないで 外で漂っている という考え方だそうだ。


というのは故人の霊が 家の中に入ることができるのは、その後で配偶者が死んで 家の中が空になった時だ、だから それまでは、家の中に 先祖代々を祀る祭壇(仏壇)の設置は良いが、故人の仏壇を設置してはいけない ということになるらしい。



戸外で霊は1か月漂う、 その間 残された家人は 故人が天国に行けるように毎日お祈りするのだが、家の中に遺影を置いた仏壇(祭壇)がない状況では、祈り自体が虚しくなってしまう ということで その家では 故人の遺影と 故人の名前、生誕日、 逝去日 を書いたお札を おいた簡易な仏壇を設置していた。


このお札は 僧侶に書いてもらったそうだが、戒名は書かれていなかった。 戒名をつけるというのは日本式仏教の特徴なんだろうか。





合掌が終わると 次のような話をしてくれた。スマホで 故人の入院/闘病中の写真を見せてくれながら。


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7歳年下の伴侶が 47歳という若さで病死してしまった。


2年前 脳梗塞で急に倒れて、テロックインタンからイポーのKPJ病院に救急車で搬送し、重病人棟に数ヶ月入院している最中、なんと言うことか 癌にも侵されていることが判明した。


その後、KLの病院に移り、西洋医学のほか 鍼治療なども加えたところ、若干回復したので、インタンに戻り地元の病院にて、癌治療の継続と 脳梗塞症状のリハビリに努めた。


しかし また具合が悪くなり、再度 KLの病院に戻った。残念なことに 様態は悪化し、そこでの治療手段が尽きると、藁をも掴む思いで 中国広州の病院まで 連れて行った。


KL市内から 病院の救急車で KLIAまで移送し、広州の飛行場に到着後も同様に病院まで特別搬送の手配をして 入院の上 診断してもらった。


患部を体内で凍らせて破砕し取り出す治療方法も このような脳梗塞併発患者には ストロークリスクが高すぎて 採用できないなど、結局は KLの病院で診断されたのと同じく、最後の手段として、残された方法は キモ(Chemo)療法(抗がん剤化学療法)だけだ、その場合でも余命は1年以内だ、 というなんとも非情な診察結果になってしまった。


この広州の病院にはテロックインタンから来た華人の入院患者が複数いた。



結局、中国の病院での最後の望みも絶たれたことから もはや闘病の気力をうしない、そのあと わずか 2週間ほどで旅立ってしまった。


ただ その2週間の間、「やるべきことは全てやったので 死ぬことは少しも怖くない 」と言っていた。



2週間の間、「(伴侶の)腕に抱かれていたい 」と言うので 病院のベッドに付き添い ずーっと 頭部を抱かえる姿勢で 日々を送っていた。

長時間の姿勢のため 腕が疲れて 痛くなるため、しばらく離して自分の腕をさすって、また抱き抱えることを繰り返していた。

最後の瞬間は、そうした腕から離した僅かの間だった。 自分の腕をさすってから抱き抱えようとしたら 逝ってしまっていた。


それに気づいた時、 「ただ逝ってしまった、これで終わった」 とだけ思った。悲しみの感情が押し寄せるわけでもなく、ただそう思っただけだった。


でも翌日、とても深い悲しみに打ちのめされた、今でも立ち直れない。



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いやはや 辛い話だった。 亡くなったのは 昨年の5月だったそうだが、その時は日本に帰国中で知らなかった。


昨年10月下旬ごろにも 電話をもらったようだが、気づかず 不在着信メッセージを見たのは 11月始めに日本に帰国して 12月にマレーシアに戻ってきてからだった。


昨年3月ごろだった、リハビリ中に電話をもらったので 順調に回復している と思っていたのだが、気になったので 今年になり 新年(西洋カレンダー)の挨拶電話をしたところ 、亡くなったと聞いた。


イポーのkPJ病院に入院中、看病で休職を続ける状況が長引くと職を失うかもしれない と言っていたが、幸い そうはならず、元どおりの職場に勤務復帰ができたことは幸いだった。



この夫婦に子供はいない、だから 余計に夫婦の絆は強かったのだろう、お悔やみの際に聞いた 辛い話に 思わずもらい泣きをしてしまった。


もらい泣き は英語で weep with XX in simpathy だ。


「夫婦の強い愛情 」は バハサ で 「 バニャック プルチンタン ダラム イステリ ダン スオミ 」 だろうか?




辛い話の中でも、いささか 驚いたことは、話に出てきた中国の病院のことだ。 この話を聞いて、マレーシアの華人と 中国の現代におけるつながりが 一般人レベルでも強化されつつあると知ったことだ。





中国の西洋医学のレベルはわからないが、多分、KLの大病院と同じくらい進んでいるのかもしれない。でも マレーシア以上ではない と思う。マレーシアの医療水準は高いのだ。


その上での話だが、マレーシアにいる華人に対して 、「場合によっては KLなどの病院で 見放された患者でも 中国に来れば、最新の西洋医学に東洋医学を併用を併用療法で 治療できるケースもある」 と宣伝しているか、あるいは マレーシア華人社会の中で口コミが広まっている んじゃないだろうか。


ちなみに この夫婦は 特段 大金持ちではなく、テロックインタンに職場を持つごく普通のサラリーマン世帯だ。それでも 中国広州まで国外入院治療/診察をさせることができた。 もちろん 相当の費用がかかったことだろうが、普通のサラリーマン世帯でも無理すればなんとかできるレベルの金額だったのだろう。 日本からアメリカの病院に入院させるなら 総コストは何千万円もかかり、一般人は不可能だ。



ドリアンだけじゃなく、そのほかのいろいろな側面を通じて、マレーシアと中国の交流は これからも ますます進むのだろうか。



以上 (1/31 記)